昭和四十六年五月一日 朝の御理解
X御理解第七十節 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理
に合う信心をせねばならぬ」
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよ」、御理解第七十一節に、「ここへは信心の稽古をしにくる所である」とありますように、信心の稽古をさせて頂く焦点、それを万物を見て道理に合うというところに焦点を置かなければならぬ。万物を見て道理に合う信心。
先日から、日蓮上人様が布教されるために、様々な、自分が信じる宗教が一番立派だということを皆に教えられるためでありましょうけれども、今まで過去においての様々な信心を、天から腐してしまわれたですね。
もう「真言仏教などの信心をしよったら無限地獄に堕ちてしまうぞ」と極端なことを言われたわけである。念仏無限といったようなことを言われた。禅の信心、禅ということは、「禅天魔」ということを言うておられます。「禅天魔」ね、「念仏無限」、または「真言亡国」とまで、真言宗のことです。いわゆるお大師様が立てられた宗教です。ああいう宗教に関わって行くとです、この国は亡びてしまうぞと。そういうふうに申されておられます。
私は余りに極端なことですから、まあ日蓮様というのは、人のことをああいうふうに悪く言わなければ、その道が立たない道だなというふうに思っていたが、よくよくそのことを考えさせて頂きよったら、成程と。私どものように、他の宗教のことに限っては素人である私どもでも、まあそういうことも言えんではないなあと、この頃は感じ出した。
言わば今日の御理解から見ると、万物を見て道理に合う信心でないということです。ですから私に言わせるならば、どういうふうに言うでしょうか。日蓮宗はとにかく根性が悪うなるようですね、人間の。和賀心というものはないです。例えば折伏をするなどといったような時には、もうそれこそがむしゃら、もう無理やたらに、その時には人の悪口ぐらい言わなければ道が立たないというような。
宗教で一番大事なところは、ギリギリの人間の本当の幸福にあると思うのですよ。
しかも信心が分からせて頂くと、人間が本当に幸福になると。そのまま天地の心に通わなければならない。いわゆる神と氏子とが一緒に助かり合うて行く、いわゆる信心共栄である。神と人とが一緒に栄えて行こうというのである。という金光大神の御建前からです、頂くと、こんな我慢我欲な宗教はないなというふうに私は思うです。いつも人をくささんならんということは助かってない証拠です。だから日蓮という人は助かってない人だと思わなければならんと思うようになってくるわけです。本当の意味において。
本当に金光大神その人こそ、本当の助かりを頂いておられた方だということになる。まあこれは私に言わすれば、日蓮様が段々仏教を深めて行かれるうちにです、そういうことになってきた。成程どうも道理に合わないと言う。万物を見て道理に合わない、おかげは和賀心にあり、おかげは和賀心にあり、和らぎ喜ぶ心にあると教えられた教祖様の信心の素晴らしさ。
ただ、南無阿弥陀仏と唱えるところに、どんなに悪人でも、業の深い者でも、その場で助かることが出来るぞというのが、広い範囲において阿弥陀様の心の中に、地獄も極楽も一緒にあるんだぞと教えられたのでしょうね。ですから、地獄は地獄、その中に有難いものを感じれというのですから、私どもは耐えられませんね。やはり地獄より極楽の方が良いですから。
様々な難儀を感じながらも、自分のことが分かるというのもそうですけれども、そこから私どもは脱出したい、そこから救われたいというのが私どもの信心。成程念仏無限といったような意味が、まあ深い意味では分からんですけど、そういうふうに感じます。成程念仏無限、念仏宗というようなものは無限地獄に堕ちるぞというようなことを。禅天魔ということも分かりません。本当の意味は分かりませんけれども、悪口に違いはない。
ですから、それを考えますと、成程禅というのは、皆様ご承知のように、座っておって座禅を組んで悟りを開こうというのです。達磨大師ですかね、十年ですか、この壁に向かって十七年間座って、座りぬいたというのですから。手も足も、手はどうか知らんが、足は腐ってしもうたと。だから達磨さん座って悟りを開いていった。
どうでしょうね、お互いがそういう宗教に、いつも座っておらなければ悟りが開けないのじゃない、金光様の行は、「火や水の行ではない家業の行ぞ」と仰られた。家業そのものを欲得でするのじゃない、家業そのものが信心修行なのだと。いかに人が喜ぶことのために、いかに人が助かることのために、いかに神様が喜んで下さることのために、それを修行として行くのが金光大神の人間がさせて頂く宗教だと思います。素晴らしいでしょうが。
成程座ったまま悟りを開くなんて、成程「禅天魔」といったふうに日蓮様が言われたのも合点が行くような気が致します。「真言亡国」なんて、いよいよそれを、成程ああいう宗教しよったら、本当に人間が本当に成長するということはない、心の成長なんかはないのではなかろうかと思いますね。なぜかと言うてから、お滝の水をかかったり、結局吹き占い。
この頃から、日田の麻生さんが、ある難儀な問題、その日は合楽に何回か参って見えました。もう咄嗟の難儀な問題に直面されたんです。というのは、難儀というのは金銭の難儀、その時は二百五十万か三百万か、急にいることになられたのです。もう間に合わないのです。だから心配の余り、綾部さんところに御出でられて、まあ顔色が心配しておるといった顔色じゃったんじゃないでしょうか。
わざわざそこに祷人さんと言われるから、やはり真言密教でしょうね、お大師さんかお不動さんかお参りされよる方でしょう。ある年配の婦人が見えておった。もう何時までに何百万かの金が要られる、持って行かねば出来ないというのですから、何かソワソワしておられたのではないでしょうか。そしたら婦人の方が言われるのに、「あなたは何か心配事があるのですか」と。「はい、実はこうこうで、金が、今日時間ギリギリで、時間も切迫してきておるのに」とこう言われるわけなんです。
そしたら、その方が言われることに「あなた、私を試してみらんか」と言われた。「試してみるといって、どういうふうで試すのですか」と言ったら、実は綾部さんが、ここの信心をなさる前に、その綾部さんの家に出入りしとられた、いわゆる霊能者の方らしいのです。だからやはり溺れるものは藁をも掴むですよ。「実は私は何百万、いついつまでじゃない、もう二時間後にはお金をつくらなければいけないのですけれども」と言うて話された。
まあ一生懸命拝み出された。やはり拝むんですね。真言密教、真言宗とか、お大師様とか、お不動様とかいうのは一生懸命拝む。そして右の方角へ行け、左の方角へ行け、金は借りに行けといろんなことを教えられるわけです。
ところがお告げがあったのでしょうね、「東の方へ行け」と言われた。そこで麻生さん、「東の方へと言って、私の方は日田の一番東の方なんですけど、これからまだ東の方へ行くとですか」と言うたら、「そうだ」とこう言われる。と言うて、行くと言うたところで、もうあちら大分とか別府の方ですから、ならあちらの知ったところへ全部電話を掛けてごらんになった。ところがそげな金、何百万という金、しかも時間ギリギリに、別府とか大分とかいうてさっと間に合わんこつが、たとえ出来たところで間に合わん。しまえには出来なかったから、「出来なかった」と言われたところが、「ならあんたの思うところへ行きなさい」と言わっしゃった。
それから直ぐ合楽に電話を掛けられた。丁度私が不在でしたから、久富先生が出られた。そしたら、久富先生が御取次して言われることが、「市内でお繰り合わせを願います」と仰った。全然違うわけですね。市内でお繰り合わせを、それは「日田市内でお繰り合わせを願います」と。それでその霊能者の方は東の方へ行けと言わっしゃったばって、言葉には背くようだけど、西の方へ行ってみようと言うて、西の方へ行ったところが、思いもかけぬところで、時間に間に合うお繰り合わせ頂いたというのである。
私は、金光様が素晴らしい、その占い師がいけないというのじゃないですよ。今日私が申しますのはね、道理に合わない信心だというのです。占いをしてもらう、御祈祷をしてもらう、成程祈念力といったようなことも私は認めます。お道でもそのために一応不乱の御祈念というのがあります。御祈念によって病気が治るといったこともあります。けれどもその御祈祷だけで、もし人間が災難が除けられたり、成程御祈祷で病気が治るといったような宗教であったら、成程「真言亡国」といったことになるのじゃないでしょうか。心の成長というものがないでしょうが。
まだこれは例を言うならいくらもあります。どげん考えたって人間万物の霊長がする信心じゃないなということが感じが致します。
これは私が悪口を言うのじゃないですよ。日蓮上人様が言いござる悪口です。そう言うとられます。「真言亡国」、「禅天魔」、「念仏無限」というようなことを。私は今日は、万物を見て道理に合わない信心だと言うておるのです。
金光様の御信心は、日に日に生きるが信心なり。素晴らしい。日に日に生きるということは、過去というものをなくして行く、日に日に死ぬるということでもある。そこから新な人間の成長があるわけなんです。心の成長も勿論あるわけです。
「万物を見て道理に合う信心」「この方の行は水や火の行ではない家業の行ぞ」と。成程人間がさしてもらう信心だなと思います。
ただ達磨さんのようにちゃんと十年も、十何年も座っておって、そして生活して、よしどのような素晴らしい悟りを開いたところで、それは本当に一人一人の人間が助かって行くには程遠い感じが致します。
ただ「南無阿弥陀仏」と唱えておれば、そのままが救い助けられるんだと説いた親鸞の教えもそうです。悪人は善人に、善人はいよいよ善人にならせて頂く進展があってこそ、そこに極楽を発見するのでなからなければ本なものじゃないと。ただ「南無阿弥陀仏」と唱えれば、成程一つの理はありますけれども、道理に合わない気が致しましょうが。そこに成程おかげはあっても、御利益があっても、おかげ、御利益だけじゃいけん。万物を見て道理に合う信心でなからなければいけないと教祖金光大神は説かれたわけです。
そこで私はこう思うです。金光様の教えられたことをより深く、より深く、今日も分からせて下さいという信心。御理解第七十一節に、「ここへは信心の稽古をしにくるところ」とありますように、お互いが信心の稽古をさせて下さい。何を対象にして稽古をして行くか、万物を見て、信心をより深く広く分からせて頂くという願いを持たなければいけないということなんです。
金光様が教えて下さった、例えば御理解七十節でもです、「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ」と教えておられても、私どもは、なかなかそれを噛んで砕いて含めるように頂かねばなかなか分からん。それを例えば今日は、その一部を私が説かせて頂くならば、金光様の教えられたことを、広く深く今日も分からせて下さいという信心の稽古の焦点がそこに置かれなければいけないということ。
二十九日の昼頃から、私は東京のお客さんが見えておりますから、私ども夫婦でご案内させて頂いた。伊万里の竹内先生と話し合い、相談合いがしなければなりません。勝彦の結婚のことの日取りのことなどの、まだお話しが出来とりませんでした。
そこで竹内先生御夫妻が今度、仲人の役を執って下さることになりましたので、ところがご承知のように先生もなかなか市長になられましてこちらはもう、大変なお忙しい公用です。でお忙しゅうあられますから日にちがないのです。
丁度二十九日の夕方から翌日の午後までは時間が空いておるということでございましたから、私は山並ハイウェーから別府にでもご案内しようかと思っておりましたけれども、伊万里の方から電話がかかって参りましたから、そういうふうにさして頂きました。
初めて私は祐徳院さんにお参りさせて頂きました。鹿島の。それも道中で思い付きましてね、はあ祐徳院と言えば、有名な、全国的に有名な、日本の三大稲荷の一つと言われるような、立派なお宮さんですから。それは参りまして本当に良かったなと思いました。もうそれは久留米がツツジの本場というけれども、もう却ってあちらの方が本場じゃなかろうかと思うくらい、全山もうツツジの花盛りです。それは見事でした。あれを見ただけで、来ただけはあったと喜ばれました。
ですけど、同時に立派な建物、宝物殿がこれが大変で、素晴らしかった。佐賀の鍋島さんのお殿様の遺品などが一杯飾ってございましてね、そういうおかげを頂きまして、丁度竹内先生から、嬉野の神仙閣というホテルを交渉しておりますからと言うてお電話頂いておりましたから、そこに伺いました。
それは立派な温泉ホテルでした。そこで丁度竹内先生とも落ち合いましてね、話し合いも出来まして、それから一晩泊めて頂いて、それから、昨日の翌朝から、丁度今日から、有田の陶器市がある。
私はこの陶器市も、私は初めてでした。聞いてはおりましたけれども。それが今日から伊万里の町が何キロにわたって陶器、もう有田全体が茶碗屋さんという感じになります。
それに昨日前日にあたりますから、お客さんも大変少なくて、自動車も中に乗り入れられまして、もう存分楽しまさせて頂いて、そしてから魯山の窯元へ参りまして、あちらを見学させてもろうて、それから竹内先生の招待で、あちらでお食事、伊万里での超一流の料亭でした。そちらにお食事よばれました。そしてから、昨日帰らせて頂くまで、本当に何というか、充実したというか、ご案内をしているお客さまも喜ばれるなら、私ども夫婦も本当に楽しい、丸一日間でございました。
それを経理の久保山さんも一緒に行ってくれましたが、さあそういうことで行かねばならんというのに、私はその日は祭日ということを知らんものじゃから、銀行から金を取るのを忘れておったんです。久富さんに慌てて御初穂の整理をしてもろうてから、あるだけ持って行ったんです。そのくらいでお金は足りはしまいけどと思いましたけど、文男さんがまとまった金を持ってきておりましたから、ならまあいよいよ足らん時にはそれを出して下さいと言うておりました。
昨日、全部必要であった。領収証を付けて、いくらいくら要りましたというのが、丁度私が持っていた金がギリギリで済んでおりました。ああ許されて使わせて頂いたんだなあと実感せずにはおられませんでした。金光様の信心には、こうしちゃならん、ああしちゃならん、そげな贅沢なことには使っちゃならんいうことがないことがその裏付けを感じられるでしょう。
昨日魯山の窯元に参りましたら、それこそ伊万里の市長さん方夫婦が前の日からずっとご案内ですから、もう丸きり大臣様の旅行のようでございました。もう魯山の窯元に参りましても、市長さん夫妻が見えるというのですから、私は驚きましたが、行くところ行くところ、わざわざそのために準備されたであろうかと思われるくらいに、料亭なんか参りました時には、もう女中さんたちが全部正装してですね、そして部屋部屋の置物一つにも、そのために変えられたであろうかと思われるような見事なものが全部用意されているといったような中に、おかげを頂いて廻った。
それからその魯山の窯元のでもです、沢山素焼きの陶器が用意されてありましたから、絵を描く人は絵を描く、字を書く人は字を書く、して、それを灼いて、また送って下さろうという趣向なんです。ですから私ども下手な字ですけども、親先生が書かれたら良いと皆が言うもんだから、沢山書かして頂いたんですけども。
その中に、私は、皿の一枚一枚にこういうようなことを書かせて頂いた。「土の心」「火の心」「水の心」「金の心」「天の心」「地の心」それを一枚一枚に書かせてもらった。「天の心」「土の心」「水の心」「火の心」「金の心」。書き終わってからですね、大体一枚しか書かんはずじゃった。秋永先生が、これは私どんが書くより親先生が書いてもろうたが良いと言うて、どげん書こうかというて、そういうような火の心とか、土の心とかいうのを書いたんです。
そして今日の七十節を頂かしてもろうて、「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならない」万物を見て道理に合う、土を見、土を感じ、土に塗れながら、働きながらその土の心が分からせてもらう時には、そこには必ず立派な作物が、お野菜が、立派な篤農家と言われるような、立派なお百姓さんができるでしょう。土の心が分かるからなんです。
お金を沢山に貯める人はです、絶対金の心が分かった人なんです。とにかく金を大事に大事にするものですから、如何に出したところで、やはり出した金が、やはり大事にされるところに帰ってくる。帰ってくる時には、子を連れたり、孫を連れたりして帰ってくる。金の心が分かっておられるからです。だから金に不自由しない人は、絶対金の心が分かっている人です。金を大事にする、そして使わにゃならん時には、素晴らしい使い方をする。ですからその使われても、それを喜んで金が使われる。その喜びが子を連れ、孫、曾孫まで連れて帰ってくる。里帰りしてくるようなもんです金が。
金を不自由している人は、絶対金をお粗末にしている人です。金の心が分からんでおる人です。ある時はがんがつする。さあなか時にはもう、さあ要る時には困らんならんというような結果になるです。金の心が分からんからです。
土の心が分かる時、素晴らしい。例えばお百姓さんというなら、本当に土の心が分かった人だと私は思う。
例えば、火の心、水の心、まあいろいろにありますけども、万物を見て道理に合う信心。
本当に水の心というのは、例えば昔から言われておる素直な心。
水のような心になれと言われております。例えば器に従うて行く、真四角の器に入れば水そのものも四角になり、丸い器に入れれば丸くなり、もう自分はこうでなければいかんというようなことがない。しかも高いところから低いところへ水が流れるように、どんなに障害物があっても、それを回って下へ下へと流れて行くという水の生態なのです。万物を見て道理に合う信心、素晴らしい。
この水の心を分からせて頂いて、その水の心に添わせて頂いただけでも、おかげが受けられる道なのです。土の心が分かれば良いお百姓さんが出来るであろう。金の心が分かれば、いわゆる金満家にならして頂けることは絶対なんです。金光大神はそういう道を教えられたんです。
火の心、それこそ上に上に、それこそ、燃え盛って行く火の心なのです。「一生が修行じゃ」と仰せられる。私どもがやはり火の心を持ってです、「日に日に生きるが信心なり」といったような、積極的な信心を身に付けさせて頂くためには、どうしても、その信心の熱情、それは火の生態にも似た火の熱情を持たねばならんのです。
と言うように、私は「天の心」「地の心」などというのは、いつも頂いとるようなことなんです。そんなことを書かせて頂いて、ふと今日の七十節を頂いてから、ははあ、あれが万物の心なんだなと私は思うた。万物を見て道理に合う信心、どこまでも道理に合う信心。しかも教祖の神様がいよいよ教えられたことを、広く深く、道理に合うた信心を広め、進めて行かねばならんということになります。
同時に、私どもが頂いとる金光教の信心というのは、成程万物を見て道理に合う信心、そういう建前を、日蓮上人様が言われた言葉を引用して、成程どういう大宗教でも道理に合わないなあと思います。それは立派です。人間の成長のそれにも深い意味にもつながって参りましょう。また御利益を受けるという意味においても、おかげは受けられましょう。けれども人間万物の霊長としての万物を見て道理に合う信心とは思われません。成程人間凡夫の頂かせて頂く信心だということになります。
ですから、そこんところに。ああ金光様の信心は素晴らしいなあと分かっただけではいけません。本気で私どもがやはり万物を見て道理に合う信心を目指さしてもらい、しかもそれが深く、しかも広く、いよいよ分からせて頂くところに、限りない信心の進展もあれば、限りないおかげのまた頂けれる元もそこに出来てくる訳であります。
どうぞ、今日は皆さん、火の心、水の心、とりわけ合楽ではね、金に不自由している人が多いですから、一つ本気で、もっともっと広く深く、金の心を分からせて頂いたら、皆さんが必ず億万長者にもなれれるおかげが受けられると確信致します。
どうぞ。